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貴崎のお地蔵様

       「北向き地蔵尊」

「山陽林崎松江海岸駅」の北口の改札を抜けたすぐ右手に祠(ほこら)を構える「北向き地蔵尊」。赤い前掛けをし、ちょこんと座ったその姿である。
 お地蔵さんは1953年(昭和28年)に創立され、その由来は、「終戦間もなくのころ、川崎航空機跡地の水たまりや、今は暗きょ化された山電の線路の北に沿った疎水に、子どもたちが落ち込み、相次いで犠牲になった。当時の婦人会員が心を痛め、浄財を集めて、お地蔵さんを迎えた。
 お地蔵さんは長く駅北口のすぐ西側にあったが、住宅の建て替え工事の際、北にやや離れた場所に数年間、移転され、1987(昭和62)年に、現在地に。

その後、盗難に遭い、一年間、写真で代用したが、結局、発見されずに、新しいお地蔵さんを迎え入れた。つまり、現在は二代目に当たる。
「地蔵尊の会」があり、地蔵盆を毎年欠かすことなく行う。お地蔵さんの周りには、ちょうちんがずらり並び、お接待をもらいに子どもたちも大勢やって来る。

地蔵盆 御接待 由緒書

         「身代わり地蔵」

「川崎重工明石工場南門」の西の市道沿いにある「身代わり地蔵」
1973年(昭和48年)頃 太平洋戦争中 川崎航空機(現川崎重工)明石工場に学徒動員され アメリカ軍のB29爆撃機の空襲により亡くなった中学生の幽霊が工場前の市道で多くの人に目撃された。
 戦争の犠牲になった多くの霊を救うと、身代わり地蔵を建ててから幽霊を見る人はいなくなった。人々は時の流れとともに、そこにあるお地蔵さんの云われを知ってる人がいなくなって誰も見向きもしなくなった頃、県営住宅を建て替えすることになり、川崎重工の土地を削ることとなった。
 お地蔵さんの場所がちょうど邪魔とばかりにどこかへ移して
しまった。
それからが大変ことが…
工場では、事故が多発し数名の方が亡くなられケガ人もでた。また市道を走っていたバイクが突然木にぶつかったり、不可思議な事故ばかり発生した。
ある老人が”お地蔵さんを動かしたからじゃないか?”という。人々はその話に耳を傾けお地蔵さんを大切におまつりした。
それからは事故がピタリと止んだという。

         「下溝地蔵尊」

空襲の犠牲者を祀る下溝地蔵尊
「山陽林崎松江海岸駅」の南改札を南に下り、
県営明石林崎第二団地の一角に祠(ほこら)を構える。
昔この場所に高射砲陣地があった。海岸の段丘まで歩けば見晴らしの良い光景が広がり高射砲陣地としての立地条件を備えていたことが分かる。
1945(昭和20)年1月19日の空襲時にこの場所に爆弾が落ちて高射砲隊兵士数名が犠牲になった

慰霊の為1958(昭和33)年建立されたが1987(昭和62)年頃住宅の造成に伴い当初の位置から80m北の現在地に移された。地蔵尊のお世話は「林崎3丁目ふきのとう」
亡くなった兵士を追悼する地蔵尊は平和な世の中を願う人々に寄り添いながら地域を見守り続けている。

            


明石空襲当時の林崎

高射砲林崎陣地跡 
2隊12門の高射砲が備えられていた

配備されていた同型の高射砲
写真 靖国神社 遊就館


川崎航空機明石工場で生産された
三式戦闘機 飛燕
現川崎重工明石工場
1945(昭和20)年1月19日午後の空襲
 63機のB29が襲来し川崎航空機明石工場の263名を含む327名が亡くなられた
(明石市調べ)
 
飛燕(三式戦闘機)の復元
 2016年10月ポートターミナル
 

    復元された飛燕          

  復元されたコックピット

 川崎重工業らしくオートバイと
     

貴崎 お好み村 078−923−4401
林崎松江海岸駅 北2分 ニュープラザ商店街
お持ち帰りできます

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